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『海色のまち』

朝、目が覚めるといつも、波のさざめきが私を包む。遥か遠くの海から運ばれてくる沢山の小さな囁きが、私の鼓膜を震わせる。

ゆっくりと体を起こすと、視界の先には、ちらちらと揺れる光の粒。カーテンの向こう側で踊っている。窓際に歩み寄りカーテンを取り払えば、そこに広がるのは一面の青だ。空と海の境界が、彼方で一つに溶け合ってしまいそうな景色。


私はこの町が好きだった。波が砕ける音も、太陽を映す眩しい水面も。白い建物が連なった通りも。中でも一等好きなのは、町が海色に染まることだ。空も海も穏やかな日に、ぎゅうっと強く目をつぶって、少しだけ待って。それからそっと目蓋を上げれば、町の景色全てに薄らと水色のヴェールが掛かる。

その瞬間私はいつも、生きていて良かったと思うのだ。私の目に映る世界は、こんなにも美しい。だからまだ、生きていける、って。


「おおい、そろそろ行くぞ」

その声に振り向いて、駆け出した。荷物を積んだ大きなトラック、その助手席に乗り込む。「遅い」という小言に首を竦めた。


今日、この町は海に沈む。誰にも変えようのないことだった。住んでいる人は全員、10キロも離れた都市まで避難しなければならない。人は何日も前にすっかりいなくなって、ギリギリまで残っていたのは私と、運転席のその人だけだった。


残念だった。惜しくて堪らなかった。人がいなくなったことで、町からは雑音が消えて、海の音だけに満たされていた。人の色がなくなって、海の色だけに染まっていた。町は今までになく純粋で、綺麗だったのだ。

これから、この町は青に沈む。本当の意味で海色に染まった町は、きっと言いようもないほどに、美しいことだろう。それが見られないのが、私には悔しくて仕方がなかった。

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