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サンプル/フリー台本: テキスト

『231』

私の青春はいつも、タイプ音とガラス越しの空と、インクの匂いと共にあった。


初めてそれに出会ったのは、高校生になってすぐのころ。顔と名前が一致しない同級生、見慣れない先生、部活動選びの選択肢は無限に思われるほど広くて、これから先の生活を想像しては胸を高鳴らせていた。その日の放課後は生徒会に見学に行こうと決めていたから、なんとなく決まってきたいつものメンバーとも別れて、一人でその部屋に向かったのだ。

Ⅱ棟3階1教室、いざたどり着いたその部屋は、およそ自由を謳う高校とは思えないほど、何かの力をもって私を威圧していた。このドアを開ける資格があなたにはあるか?この先に足を踏み入れる覚悟はあるか?……資格も覚悟もおそらく私にはなかったが、たった少しの好奇心を武器に無鉄砲に突っ込んでいくことにかけては自信があった。小刻みに揺れる手でノックをして引いたドアは、思っていたよりずっと軽かった。

……そして私は、『青春』に出会う。

まず気がついたのは、鼻に抜ける濃い香り。印刷室とか職員室とかで嗅ぐものと同じだったから、私はすぐに、奥にある印刷機のものだと分かった。驚いた、まるで役員の一人のようにそこに堂々と鎮座し、一定のペースで紙を吐き出している。背の低い女子生徒が一人、その印刷機の上面を愛おしそうにさすっていた。

カタ、カタというキーボードの音がしてそちらを見ると、パソコンになにやら打ち込んでいる男子生徒。見たところ、私の中学校のパソコン室に大量に置いてあったものと同じ型のようで、押してもキーがなかなか沈まないそれに彼は眉間にしわを寄せている。

「……すみません、見学の方ですか?」

近くにいた女子生徒に問われ慌てて頷く。荷物を窓際の机に置くように言われそこに行けば、青い空が目の前に広がった。

「ああ、空、広いですよね」

先ほどの彼女が、窓の外を見つめる私に言う。

「生徒会室にはカーテンがないですから」

……ああ、道理で。

インクの匂いと、タイプ音と、広い空。お腹の下の方から何かがぐわっと上がってきて、勝手に口角を上げさせた。鼓動も、いつもよりずっと速かった。手の先までびりびりと痺れるような刺激が走る。

不思議だ。初めて制服を着た時だって、こんなにどきどきはしなかったのに。何故だろうか、私はここが自分の求めていた場所なのだと直感した。

もし人生にターニングポイントがあるとすれば、私のそれはここ以外あり得なかった。


生徒会室にはエアコンもない。だからその大きな窓を開け放すことが非常に多いのだと、そう知ったのはいつだったか。

初めの一年間は下積みだった。当たり前のことではあるが、先輩達は後輩に期待をしてはいなかった。誰でも出来るような、単純な労働力が必要な仕事ばかりを与える。そんなわけだからパソコンにはほとんど触れず、印刷機だけが私の友達だった。

「すっかり印刷機マスターだね」

先輩に言われたけれど、私は虚しくてしょうがなかった。読み取り濃度と印刷濃度、それから縮小やらを覚えれば、誰だって印刷機マスターだ。いつも雑用ばかりさせられている後輩に少しばかりの自尊心を持たせてやろうというだけの、からっぽな声かけ。私達が気づいていないとでも思ったか。

……ああ、でも。私がこいつと友達だと、そう言える根拠が一つだけある。心の中で呼びかけて、頑張れ頑張れとその上面をさすってやると、こいつは調子が良くなるのだ。先輩達はそんなことしないし、印刷が掠れたりすると悪態すらつく。それじゃだめですよ先輩、こいつはね、生きてるんですから。

私が最初に見た、印刷機の近くにいた女子生徒。あの人は当時三年生だったようで、私が生徒会に入ると同時に引退してしまった。

きっとあの先輩も、お前の友達だったんだね。

返事はない。印刷機はいつもと同じように、がしゃん、がしゃんと音を立てている。心地よいそれに耳を傾けながら、磨り減ってきた彼の表面に手を滑らせた。


高校二年の十月、先輩が引退し後輩が入ってきてから、仕事の量が急に増えた。

副会長としての私の仕事は会長を支えることだ。しかしそれ以外にも、全体を見回し何か抜け落ちているところはないか調べ、後輩の足りないところをカバーしつつ教育していく。ついでに言えば、仕事をしない同級生の尻を叩くのも私の仕事である。

私はよく頑張っている方だと思う。

生徒会は、基本的に褒められないし感謝もされない。やって当たり前、出来ていないところだけは責め立てられるというなんとも損な役回りだ。一生懸命やっても報われない。他人のミスを代わりに被って多方面に頭を下げて、そんなことしてもお給料だって入ってこない。

だから自分で自分を褒めては、今日もパソコンとにらめっこ。キーが固いことがこんなにもストレスになるなんて知らなかった。カタン、カタンと響く音は、もう慣れすぎて耳障りにも感じない。ディスプレイに目がチカチカする。

だんだんタイプミスが増えてきて、仕方がないそろそろ帰ろうと上書き保存してワードを閉じた。ふと窓を見れば室内が映るほど暗いようで、周りには誰もいなかった。みんな、私を置いて帰ってしまったのか。そう言えば何十分か前に、誰かが声を掛けてきたような。

シャットダウンを済ませて今日のお仕事終了。明日もきっと、このパソコンと十九時半までたっぷりデートするんだろう。この書類を作り終わらないことには何にも始まらないから。

窓際の机には、私のリュックがぽつんと一つ。窓ガラスは疲れ切った私の姿を映していて、それがなんだか面白くなかった。

軋む体を動かして伸びをしながら窓に近寄る。ここのところ閉めっぱなしになっているそれを開けてみれば、インクの香りがしない、新鮮で冷たい風が頬を撫でた。胸いっぱいに吸い込めば、疲れた肺にひんやりとした刺激が気持ちいい。冬が近づいている気配がする。

外は真っ暗だった。月もなかった。電気の付いている場所は他に見当たらない。明るい部屋に、一人だけ。

……ねえ、やっぱり私は頑張っているよね。答える人は誰もいないのに、この部屋の全てが私を肯定してくれているような気がしてならなかった。

生徒会室は、私の部屋だ。私がこの教室に入るとき「ただいま」と言うようになったのは、確かこの頃からだったと思う。



……さて、随分たくさんのことを書いてしまった。とはいえ二年分だ、もっともっと思い出はあるけれど、もう遅い。一等大事なものを書けただけでも良かったと思う。外はいつかのように真っ暗で、開け放した窓からは風がゆるりと吹き込んでくる。インクに混じって、かすかに秋が香る。何故だろうか、最後だというのに思い出されるのはなんてことない日々ばかりだ。文化祭を作り上げたとか、みんなで晩御飯を食べに行ったとか、もっと高校生らしい体験だってしたはずなのに、私にとってはこの部屋と過ごしたことがよほど大きかったらしい。

いま私はこれを、生徒会室のパソコンで打っている。キーがなかなか沈まないうえに長く書いているんで、指がくたびれてしまいそうだ。学校の備品で何をしているのかと怒られそうなので弁解だけさせてもらうと、私は今まで一度だって、コンセントを勝手に借りたり、自分のお菓子を冷蔵庫にしまったりしたことはない。けどどうしても譲れなかったのだ。これだけは、本当にこれだけは、思い出の場所で、この部屋で書いてしまいたかった。だからこれが、最初で最後の私的利用だ。

……ああ、もうすぐ終わってしまう。文章は結びに入ったし、私はもうすぐこの部屋を出て行く。しかし後から振り返ると、この青春は随分キラキラしていたものだ。その最中にいるときはそれには気がつかないのに、思い返せばどんなに尊く愛しい時間だったことか。時間を巻き戻して、もう一度だけ繰り返せたなら。今度こそもっともっと、愛しながら日々を過ごしていけるのに。


このパソコンの前で、何時間も座り込んで書類を作った。固いキーを叩く感触はもはや慣れ親しんだもので、さらさらとした指触りは心地良い。


あの窓から大きな月を見た。彼方まで真っ赤に染まった秋の夕焼けも、どこまでも眩しい透き通るような夏空も。


それに忘れちゃいけない、あの印刷機。何度も何度も調子をおかしくして、その度に私が面倒を見たのだ。すっかりくたびれた空気を醸し出すそれと、傍に置かれたプラスドライバ。初めて彼を直してから、ずっと手の届くところに置いていたんだっけ。


この部屋の中には、どこにだって私がいる。だってこの二年間、ここは私のホームだった。目を閉じれば、つんと鼻を刺すインクの香り。

私はここに、魂の一部を置いていく。

いつだって思い返す特別な場所。もうここへ来ることはないけれど、寂しくなったときはきっと目を閉じれば、また帰って来られると信じよう。だからさようなら、私の青春。さようなら、瞼の裏に焼きついた、きらきら輝く231教室。


悲しい、寂しい、大好きでした。たくさんの気持ちが溢れるままに、私の指は最後のエンターキーを叩く。

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